2011年2月1日火曜日

華北交通のころ②

結婚しました



ポンピラにて



万寿山にて



青年隊舎の仲間たち




隊舎前にて、菅原医師



張家口鉄路学院

入社早々から、じぶんが担当する分野は「中国人鉄道員の養成」と、かってに決めていました。会社が関係する学校には、扶輪小学校、(各地鉄路局)鉄路学院、中央鉄路学院などがありました。駅員や車掌などの実習がすんだら、扶輪小学校か鉄路学院でも実習したいと申請しておきました。


1943年4月(?) 張家口鉄路学院教諭を拝命。ここで、日本人従業員に中国語、中国人従業員に日本語を教えました。念願の職場で、楽しい1年間でした。ただ、いざ「人にものを教える身」になって、いまさらながら自分の勉強不足を思い知らされました。


鉄路学院でわたしが目ざしたのは、「日中合作で鉄道事業を進める中堅幹部の養成」であり、その一環として「日中の相互理解・意志疎通をはかるための日本語・中国語学習指導」でした。それには、鉄路学院にふさわしいカリキュラムやテキストの研究も必要です。そして、なによりまず必要なことは、教師が生徒たちの学習意欲を引きだすツボを心得ていることでしょう。それには、生徒たちが日常の仕事や生活についてどんな問題意識を持っているか、それが分からなければ話がはじまりません。そんなわけで、わたしは鉄道現業、とりわけ構内運転部門での再実習を志願しました。


宣化駅構内助役

1944年4月(?)宣化駅構内助役を拝命。宣化駅の主な作業は、龐家堡pangjiabu鉱山で採掘された鉄鉱石を積みだすことでした。


宣化駅では、なによりまず、一人前の鉄道員になることをめざして働きました。徹夜明けには、仲間といっしょに ちかくの川でドジョウやエビをすくい、テンプラにしてたべました。酒のサカナに最高でした。


この地域は、「宣化のブドウ」の産地としても有名でした。

行政区画として、当時は宣化県でした。戦後は一時宣化市となり、1983年以降は張家口市宣化区となっているそうです。


ちなみに「龐家堡」という地名の読み方ですが、日本人はみな「リュウカホ」と呼んでいました。辞典には、「龐=广+音符龍の会意兼形声文字。厖大のボウ[厖]と同字」と解説されていますが、読み方は、辞典によって「ホウ、ボウ、リュウ」とするものと、「ホウ、ボウ」とするものと両方あります。

このことは、おなじ字形[風]を音符としながら、フウ風fengとラン嵐lanに分かれている例を連想させます(音韻の問題については、別の機会にあらためてとりあげる予定)。


張家口鉄路局文書科

1944年10月(?)、張家口鉄路局文書科勤務を命じられました。山口県出身の藤田兄といっしょでした。文書科には浄書室があり、おおぜいのわかい女性たちが和文タイプを打って、文書を作成していました。敗戦後、藤田兄は帰郷して間もなく病気で亡くなりましたが、女性たちは帰国後もカルガン会のメンバーとして健在でした。


一時帰国、結婚

1945年2月、加藤信子と結婚するため、一時帰国することになりました。

両親はずっと北海道に住んでいましたが、故郷への愛着心は格別で、「息子の嫁はぜひ富山から」と考えていたようです。父の意向が富山市在住の中山テイ叔母さんに伝えられ、その中山叔母さんが信子の叔母(水岡)さんと近所同士だったことから、二人の縁談が進められたそうです。


帰国の途中、たしか門司港か下関港かで、ぱったり水上勇太郎先生にお会いしました。その時のことは、ブログ「旭川中学のころ」(2010. 12. 7)の項に記しました。

   

2月25日、ちょうどわたしの誕生日。信子の実家(富山市砂町)、加藤家の一室で結婚式をあげました。「見合い結婚」ということばがありますが、二人は「見合い」なし、「交際期間」なし。写真を見ただけで、初対面の場が結婚式の場でした。


両親に結婚の報告をするため北海道へ向かう途中、松島湾で弟の長義と面会しました。応召中の彼は、飛行兵から船舶兵に転科。「毎日逆上陸の演習ばかり」といっていました(ブログ11/16, 11/30の項参照)。


そのあと北海道にわたり、両親と姉に報告しました。冒頭にかかげた写真「ポンピラにて、1945」がその時のものですが、今の地図でさがしてもポンピラという地名は見当たりません。おそらく父の最後の任地で、登記所があったところかと思います。


ツアル[賜児]山青年隊舎

3月はじめ、妻を同伴して帰任。ひきつづき張家口鉄路局賜児山青年隊舎に住むことになりました。ここは独身、単身の男子ばかりの宿舎ですが、会社から信子に「寮母」の辞令が出ました。


青年隊舎には、2交替・3交替勤務の青年たちもいて、昼といわず夜といわず、おおぜいの仲間が「寮母室」に集まってきました。用件は衣服の補修とか、ちょっとした調理とか、徹夜明けの時間つぶしとか、さまざま。飲み食いしたり、議論したり、さながら「梁山泊」の状態でした。


常連の中に、張家口鉄路医院内科医師として着任したばかりの菅原恒有さんがいました。彼は北大医学部の出身。1945年度の定期採用で、1944年10月北京で入社式。約50日間の研修を終えて、12月5日付で張家口鉄路医院内科勤務に発令。新年早々に青年隊舎へ引っ越してきました。青年隊舎幹事(網野・菅原・イズミ)の一員として、青年隊舎の居住環境を調べ上げ、改善策を提案するなど、「予防医学」について熱く語っていました。

戦後帰国してから、岩手県庁に入り、厚生部長を務めるなどして活躍されました。

菅原医師については、このあと「長安会」(華北交通OB会)の項でも紹介する予定です。

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